[ 特集 ]時間を味方にしよう

スマホを使っているこの「時間」ってなんだろう。時間をムダにしたような気になるのはなぜ?(構成:編集部)

 「本当は勉強しないといけないけど、ちょっとだけ……」。そう思ってSNSを見る時は、そのコンテンツに強い関心があるわけでもなかったりします。なのに、見るのをやめられない。何かから逃れたいのかもしれません。

 「SNSに時間を盗まれてしまった」ように感じるのも、逃れたいものから目をそむけている罪悪感があるから。SNSを現実とうの手段にしていることに、本当はみんな気づいているのです。

 30秒のショート動画を自動再生で見ていたら、あっという間に1時間経っていた。そんな経験はありませんか?

 30秒という時間は、0に近い時間です。0が積み重なっても0のままなので、まるで時間が流れていないように感じているのかもしれません。でも、不思議なことに、1時間の動画を見続けることは難しい。長い動画を見ている間は、頭の中で前後の流れを思い出したり想像したりしているからです。動画を見ながら、無意識に時間の流れも感じているのです。

 SNSの「タイムライン」に流れてくる情報は、今この瞬間に起きていることのように思えます。しかし、実際にはそれらの情報は別々の時期に作成されたもの。情報が集まっているだけで、SNSの中に時間は流れていないのです。

 Instagramには24時間で投稿が消えてしまう「ストーリーズ」という機能があります。コンテンツを見ることで、投稿者と「同じ時間を共有している」ように錯覚してしまうのです。こうすることで、時間の流れを作り出そうとしているのかもしれません。

 哲学には、そもそも時間は存在しないのではないか、という考え方があります。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、30分は時計の針がこれぐらい動くという、空間的な物体の運動としてとらえていました。でも、それを理解するには、30分前の時計の針の位置を覚えている必要があります。

 もし、記憶することができなかったら、人は時間というものを理解することができません。今という現在の瞬間が続いているだけで、過去も未来も存在せず、時間の流れもないということになります。

 人は目的に到達するために、効率のいい手段を求めます。タイパ、コスパという言葉がよく使われるように、時間を短縮しよう、手間をかけないようにしよう、と考えるのです。

 手段を合理化していくことはもちろん大切ですが、合理的に説明できなくても価値があるものがたくさんあります。自分にとって本当に価値があるものが何かを問い直してみると、時間をむなしく感じることはなくなっていくと思います。

 時計によって計測される時間は、絶え間なく進んでいます。しかし、私たちは、時計の時間とは関係なく、過去(昨日)と現在(今日)と未来(明日)が連なった、ありのままの時間を過ごしています。

 変わったことが起こらず、なんとなく過ぎてしまう「日常」は退屈なので、私たちは何かしらの気晴らしをして生きています。スマホやSNSもそうですね。時間を使ってしまった後で後悔をするのかもしれませんが、夢中になっている時にそんなことは考えられません。もちろんタイパやコスパのことも。時間を忘れようとしている状態です。

 同じことが繰り返される日常を変えることはできないと思うかもしれません。しかし、私たちにはどんな時でも別の生き方をする可能性が開かれています。昨日はSNSの動画を見て時間を過ごしたとしても、今この瞬間にSNSを手放すことができる。今日を昨日と違う日にすることができる。そうしたたくさんの可能性が開かれているのです。

 私たちは時間から逃れることはできません。現在という時を生きながら、過去を思い出し、未来のことを考え、どう歩んでいくか考え続けることが大切なのです。

 自分の人生の物語では、自分が主人公です。なのに、誰かの物語のモブキャラになっていたり、ほかの人を自分の人生の主人公にしてはいませんか。

 この場合の主人公とは、ヒーローのような意味ではありません。自分の人生の物語をどう展開させていきたいかを、自分で考えることができればOK。それぞれが、かけがえのない自分なりの物語です。自分の人生の時間を、どんなふうに過ごしたいのかを考えると、毎日の時間の使い方が変わってくると思います。

WEB限定深堀りコラムのタイトル画像が入ります

WEB限定深堀りコラムの見出し画像が入ります

ダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキスト

ダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミー

ダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミーテキストダミー

(構成:編集部)

ひろさん
1988年東京都生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。専門は哲学・倫理学。研究のかたわら、社会に開かれた対話型ワークショップ「哲学カフェ」を実践している。『SNSの哲学』『悪いことはなぜ楽しいのか』『親ガチャの哲学』など著書多数。

写真:桂 伸也 イラスト:イラカアヅコ

※この記事は『ETHICS for YOUTH』2024-25年冬号(No.8)に掲載したものです。
※コラムはウェブオリジナルです。