若い二人の悲劇的な恋が大人たちを和解へとみちびいた 若い二人の悲劇的な恋が
大人たちを和解へとみちびいた

 イギリスの劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの古典劇です。舞台は中世期、1450年頃のイタリア・ヴェローナ。シェイクスピアはイタリアのでんしょうなどを元に、1597年に若い男女の悲劇『ロミオとジュリエット』を出版しました。

 ジュリエットはキャピュレット家の一人娘。仮面舞踏会で敵対するモンタギュー家の一人息子と知らずにロミオに出会い、すぐさま恋に落ちます。二人がお互いの名前を知った時には、誰も止められないほど恋の炎は燃え上がり、秘密の結婚式をげますが、運命のいたずらから悲劇的な結末を迎えてしまいます。

 若い二人の情熱的な6日間の恋物語は人々をきつけ、演劇だけでなく、バレエやオペラ、映画、ミュージカルなどに形を変え、今も世界中で数多くの作品が生まれています。映画『ウエストサイド・ストーリー』も『ロミオとジュリエット』のお話を元にした作品の一つです。

『ロミオ&ジュリエット』
シェイクスピアの古典劇を、時代と舞台設定を現代に置き換えて映画化。短くも激情的な二人の恋を激しいロックに乗せてスピーディーに表現しています。ロミオをレオナルド・ディカプリオ、ジュリエットをクレア・デインズが演じました。
1996年/ 120分/アメリカ
監督・脚本 バズ・ラーマン

ディズニープラスのスターで配信中

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貴族階級ではせいりゃく結婚がほとんどだった 貴族階級では
せいりゃく結婚がほとんどだった

 中世ヨーロッパの都市にはキリスト教の教会があり、人々は生まれてから死ぬまで、一生にわたって密接なつながりがありました。結婚は神が結びつけた神聖なものと考えられていましたが、貴族の家では、家のために結婚相手を決められることがほとんど。当時は13歳くらいで嫁ぐこともあったようです。ロミオとジュリエットは、そんな社会に反して、秘密のうちに教会へ行き、神父の前で永遠の愛をちかったのです。

 イギリス、フランス、ドイツなど、王国が多かった中世ヨーロッパですが、イタリアはナポリ王国を除けば、地中海貿易で富を築いたヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノなどの都市が栄えていました。14~15世紀になると大商人が貴族となり、政治的な権力も握るようになっていました。芸術や技術など、さまざまな文化が花開いたのもこの時代です。

ロミオとジュリエットの家はなぜ憎み合っていたの? ロミオとジュリエットの家は
なぜ憎み合っていたの?

 モンタギュー家とキャピュレット家の対立にはモデルがあり、ダンテ(※ダンテ=フィレンツェ出身の詩人)の叙事詩『しんきょく』にも登場。「14世紀の地方では名家同士が争いを繰り返している」と書かれています。中世後期に神聖ローマ帝国が北イタリア遠征を行うと、ローマ教皇と激しく対立するようになりました。2つの家の争いの背景には、ローマ教皇支持派と神聖ローマ皇帝支持派の対立があったのです。

 『ロミオとジュリエット』の舞台となったのは、1450年頃のイタリア、ヴェローナ。シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』の戯曲を出版したのは、それからおよそ150年後の1597年です。
 シェイクスピアは生涯で37編の戯曲を残していますが、そのうち、イタリアを舞台にした作品は14本。『ロミオとジュリエット』のほかには、『ヴェニスの商人』『オセロ』といった戯曲があります。
 シェイクスピアがイタリアに行った記録はありませんが、北ヨーロッパのイギリスは日照時間が短く、曇りの日も多いので、太陽が降り注ぐ南ヨーロッパのイタリアに憧れを抱いていたイギリス人は多かったようです。

 『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアのオリジナル作品ですが、そのルーツというべき物語はありました。
 15~16世紀に、バンデッロという人がイタリアに古くから伝わっていた民話を物語として整え、それがフランス語や英語に翻訳されました。1562年には、イギリスのアーサー・ブルックがその物語を題材にした長編物語詩『ロミウスとジュリエットの悲劇的な物語』を発表。シェイクスピアは、それらの作品を参考にして『ロミオとジュリエット』の戯曲を書き上げたのです。
 シェイクスピアは、若い二人の困難があってもなおお互いを信じ、愛したことで、大人たちの抗争を止めるきっかけになったことを描きたかったのかもしれません。

 1450年頃のイタリアでは、政治的な抗争が続き、1454年「ローディの和」によってイタリア内部の対立や抗争が小休止となっています。こうした歴史的背景を踏まえて『ロミオとジュリエット』は生まれました。
 当時の歴史を見てみましょう。
 イタリア半島の北部や中部の都市では、東方貿易によって富を得た商人たちが現れ、政治的な力も持つようになりました。12~13世紀頃には、ヴェネツィアやフィレンツェなどでは、都市共和政が行われていました。
 14~15世紀のイタリアは、都市国家同士の争いや、外国からの干渉が続き、戦争が絶えない時代でした。1454年に「ローディの和」がヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、教皇国家、ナポリの間で結ばれて、争いは一時おさまります。15世紀末から16世紀半ばにかけてイタリアを舞台にフランスとハプスブルク家の間でイタリア戦争が起きました。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世はフランスと手を結んだ教皇を攻撃するためにローマを略奪するなど、イタリアの混乱が続きます。
 イタリアの国内では、ローマ教皇を支持する教皇派(ゲルフ)と神聖ローマ帝国皇帝を支持する皇帝派(ギベリン)に分かれ、都市の内部や都市間で激しい抗争が続いていました。
 『ロミオとジュリエット』の舞台となったヴェローナは、ヴェネツィア共和国の都市の一つで、1400年代には皇帝派のスカラ家が支配していましたが、その後教皇派が勢力を伸ばし、激しい争いが続いていたのです。

 『ロミオとジュリエット』には、「恋人に会う時は下校する生徒のように心がはずみ、恋人と別れる時は、登校する生徒のように心が沈む」というロミオのセリフが出てきます。貴族の家に生まれたロミオは学校に通っていたのですね。
 しかし、市民のほとんどは労働者階級。家の仕事を手伝ったり、修行に出されたりして、教育を受けられたのはほんの一部の子どもたちでした。
 それでも商人たちは、仕事をする上で必要な読み書きや計算を身に付ける必要があり、市民の子どもたちの教育のために塾がつくられたといわれています。高等教育の大学が現れるのは12世紀ですが、修道院や教会に付属する学校は12世紀よりはるか前から存在しました。
 特に経済力のある商人たちは子どもたちの初等教育への関心が高く、「読み書きを習っている男の子と女の子は、8000人から1万人いた」という資料が残っています。

(構成:編集部)

藤崎 衛

『自分のなかに歴史をよむ』
阿部謹也著(ちくま文庫)

歴史学者の著者が、自身が研究を始めた経緯を振り返りながら、日本人がヨーロッパの歴史を学ぶ意義はどこにあるのかなどについて、中高校生向けに伝えています。

『一冊でわかるイタリア史』
北原敦監修(河出書房新社)

イタリアの歴史をわかりやすく一冊にまとめた本。イタリアの出来事と、世界と日本の出来事を比較した年表がついています。

『中世イタリア商人の世界 ルネサンス前夜の年代記』
清水廣一郎著(平凡社ライブラリー)

14世紀のフィレンツェの商人で年代記を残したヴィッラーニの一生を通して、商人たちの世界を紹介しています。

ふじさき まもる
東京大学大学院総合文化研究科教授。1975年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専門は中世西洋史。著書に『中世教皇庁の成立と展開』『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』がある。『300点の写真とイラストで大図解 世界史』の監訳も手がけている。

イラスト:藤 美沖 写真:石山勝敏

※この記事は『ETHICS for YOUTH』2024年夏号(No.6)に掲載したものです。
※コラムはウェブオリジナルです。