[ 特集 ]アオイナツ

 子どもの頃は、スポーツやコーラスが大好きで習い事をかけもちするタイプ。俳句を作るなんて考えたこともなかったです。
 小6で引っ越した愛媛県松山市は俳句がさかんな街。中1の時に、テレビの取材で教室に俳句ポストが置かれました。人が思いつかないようなことを書くのが楽しくて投稿をすると、俳人の先生から、面白い言葉が返ってくる。それが楽しくて、だんだん俳句にハマっていきました。

 対戦校とは、互いの俳句に質疑応答をします。これが熱いバトルに。勝ち抜くためにディベートの特訓をしたり、戦略を立てて戦うスポーツ競技のような要素もあります。静かに考えるのが苦手な私は、大会前日には宿舎で壁倒立をしながら俳句を作っていました。高1で団体優勝し、高2では準優勝でしたが、「夕立の一粒源氏物語」が最優秀句に。『源氏物語』を読んだことがなかったのは今も笑い話です。

佐藤文香さんが出場し、準優勝した第5回「俳句甲子園」で
(前年は優勝)。右から3人目が佐藤さん。

この時の仲間たちとは今も親交がある。
前列左側が佐藤さん。

 青春と感じるのは振り返った時。大会に出たことで思い出がたくさんできたし、俳句の友だちができました。兼題けんだいが発表になると、季語を理解するために、みんなで動物園に行ったり、自然を観察したのも楽しかったな。
 俳句甲子園に出場したことは私にとって人生の一つの通過点。でも、思えば俳句で人生を駆け抜けてきました。
 17歳の自分にしかできなかった経験があって、今があります。その時の自分だけが作れる俳句があります。ずっと後になってよさが分かったりすることもあるから、面白いです、俳句って。

 「俳句甲子園」と「俳句」に、興味を持っていただけましたか? 
 「俳句で人生を駆け抜けてきた」と言いましたが、俳句と出合ったから、いろんな人に出会い、今の自分があるのだと思います。

 私が俳句に出合ったのは、神戸市から引っ越した愛媛県松山市でした。松山は、俳句の街として知られ、「俳句甲子園」の本拠地でもあります。街には至る所に俳句ポストがあり、「俳句って作るものなの?」「教科書に載ってるだけじゃないのか」と驚きました。俳句のことも全く知りませんでした。
 その頃、通っていた中学の国語の先生をしていたのが夏井いつきさん。地元のテレビ局が、夏井先生の俳句指導を受けた中学生を追うドキュメンタリー番組を撮ることになり、私のクラスがその指導を受けることになったんです。今思えば、とても贅沢なことですよね。
 ロッカーの上には俳句ポストが置かれました。面白いこと、言葉遊びが大好きだったので、ラジオ番組にはがきを投稿するようなつもりで投稿を始めました。たぶん、私が一番たくさん投稿したと思います。
 投稿すると、裏側に先生がコメントを書いて返してくれるのですが、それがとってもうれしかったです。ときには『プレバト!』のように愛のある厳しめのコメントも。俳句がどんどん楽しくなっていきました。

 中学1年で作った俳句です。教室で掃除の時に、雑巾でこぼした牛乳を拭いたりすると臭くなる。そんなことに目をつけるのは私くらいだろうから、それを書いてやろうと思って、今から春になる明るいムードの「春隣」という季語と合わせました。
 これは、夏井さんに教えてもらった「取り合わせ」で作りました。まず12音のフレーズを作り、次に5音の季語を合わせるというものですが、この構造にすると、ありきたりな句になりにくいんです。

1998年秋、夏井いつきさんの授業で句作を開始。左が佐藤さん

 番組が終わった後も、俳句を続けたいなということになって、俳句に興味がある子を誘って、夏井さんの「社会人と学生のためのファックス句会」に参加したりしていました。そこには、当時始まったばかりの「俳句甲子園」の出場を目指している憧れの先輩が参加していたりして、「私も松山東高校に入るぞ」「俳句甲子園に出るぞ」と思っていました。
 憧れの先輩というのは、現在は俳人として活躍されている神野紗希さん。私が高1の時、神野さんは高3。神野さん以外は全員高1という5人のメンバーで優勝し、最優秀賞を神野さんが受賞。松山東高校はすごいと、一躍脚光を浴びました。

 その翌年、「俳句甲子園」に出した句です。熱帯魚にはひらひらのヒレがついていますが、熱帯魚同士がすれ違う時はヒレが触れ合っていない。そんな発見の句です。
 賞に入らなかった地味な句で、作った当時は自分ではしっかりとはよさが分からなかったんです。でも、神野さんから「この句が良かった」と言われたのを覚えています。何年かして見返してみると、確かに地味だけど「よく観察ができてる」って思えたんです。
 受賞するような派手な句、その時に輝く句もいいですけど、後から自分で振り返ってよさが分かることもある。誰か一人に「いい」って言ってもらえる作品にも価値があるんだということを学びました。
 俳句には「多作多捨」という言葉があります。多く作って、多く捨てる。高校生の頃は、50句作って2句残ればいいなというような気持ちで俳句を作っていましたね。どんどん作っているうちに、狙いが定まってくると思います。皆さんもぜひ十七音の俳句にチャレンジしてみてください。

「俳句甲子園」の時のスナップ

中学2年生の頃「俳句ライブ」をやっていました。

 私はいま、俳句のほかに、短歌や現代詩などのジャンルにも目を向けるようになっています。でも、子ども時代の夢は、シンガーソングライターになることでした。

 中学校の時(90年代後半)は、J-POP全盛期。小学校4年生の時にスピッツが大流行りして、中学に入ってからは、ゆず。ゆずの歌詞や自作の歌詞を書いて、好きな先生にあげたりしていました。何年後かにそれを見つけ、火を吹くような恥ずかしさでいっぱいになり、破り捨てた覚えがあります(笑)。
 でも、自分の俳句は、破り捨てるほどヤバいのはないんですよ。中学1年生の思いなんて、恥ずかしいに決まってるじゃないですか。でも、俳句だと、牛乳の句も笑えるし、他にも覚えている句がありますが、そんなに恥ずかしくない。
 俳句という形式が、心情を吐露する余地があまりないからだと思うのですが、言ってしまうとありきたりになってしまうような思いをぐっと抑えるという俳句のやり方をはやくから学べたのは、本当によかったと思っています。
 実はいま、友だちのバンドから依頼をもらって、共同制作で歌詞にもチャレンジしています。CRCK/LCKS(クラックラックス)というバンドです。もうすぐ次のアルバムがリリースされる予定なので、ぜひ聞いてみてください。

 私は名前も「文香」ですし、文学の道をまっすぐ進んできたと思われがちですが、実は全然違います。シンガーソングライター、声優、リポーターと、いろんなものに憧れていて、俳人になりたいなんて一度も思ったことはありませんでした。
 10代の頃はそんな感じでいいと思うんです。何にでもなれますよ。大人になってからでも、夢は新しく作って叶えていけばいいし、迂回しても、また子どもの頃の夢に戻って叶えたらいい。私も今でも怪しんでいます。まだ最終地点じゃないぞって(笑)。

(胡桃堂喫茶店にて撮影)
 

俳句甲子園に向けて集中している時、自分を俯瞰する視点を持つと、頑張る自分の尊さを確認できると思います。大会に出場することが高校生活のすべてじゃないし、負けたとしても決してダメな人じゃないです。大きな目標に向かって頑張ったことは価値のあることと考えましょう。

俳句は自然を相手にする詩の形です。それにならって外に目を向けてみると、夏といえばやっぱり緑かな。「万緑」という季語もあります。夏の山野の見渡す限りの緑のことをいいます。

(構成・編集部)

第27回大会の審査風景

第27回大会結果発表風景

愛媛県松山市で毎年8月に開かれる俳句コンクール「全国高等学校俳句選手権大会」。参加は5人1組。団体戦は、2チームが赤白に分かれて1句ずつ句を出して競い合う。6月から地方大会が始まり、全国大会は毎年8月に愛媛県松山市で決勝リーグが開催。予選を勝ち抜いた32チームが、「俳句」についての見識や感受性、創造力などを競い合います。全国大会1日目はフェアウェルパーティー、2日目は予選リーグ・予選トーナメント、3日目は敗者復活戦・決勝リーグ・決勝が行われる。
写真提供:NPO法人俳句甲子園実行委員会


大会名

第28回俳句甲子園

日程

2025年8月22日(金)~24日(日)

会場

大街道商店街特設会場、松山市民会館(愛媛県松山市)

参加資格

高校生5人1組をチームとして、創作した俳句の作品評価ならびに鑑賞力(お互いの句に対して議論を行う)を競う

部門区分

地方大会(予選会)は、1試合3句勝負で対戦。対戦成績(勝敗)の良いチームを全国大会進出チームとする。

主催

NPO法人俳句甲子園実行委員会

共催

松山市・愛媛県

公式サイト


佐藤文香さとうあやかさん
1985年兵庫県生まれ、愛媛県育ち。13歳で俳句を始め、句集に『海藻標本』(第10回宗左近俳句大賞)、『君に目があり見開かれ』、『菊は雪』、『こゑは消えるのに』。2014年頃から詩も書くようになり、『渡す手』にて第29回中原中也賞。編著に『俳句を遊べ!』、『天の川銀河発電所』、共編著に『おやすみ短歌』など。作詞や句集の編集協力等も手がける。
https://satoayaka.com/

写真:石山勝敏

※この記事は『ETHICS for YOUTH』2025年夏号(No.10)に掲載したものです。
※コラムはウェブオリジナルです。