サッカー日本代表として、ワールドカップに2度出場。プロサッカー選手として輝かしい活躍をした福西崇史さん。選手時代も今も大切にしているのは、人とのつながり。サッカーを盛り上げることで、みんなを笑顔に。自分にできることを模索し続けています。
サッカーだからできることがある
聞きやすい語り口で、分かりやすく、時に鋭くサッカーを解説してくれる福西崇史さん。サッカー選手としては、日本代表の名ミッドフィルダー(ボランチ)として活躍。記憶に残る数々のプレーを見せてくれました。
2009年に引退してからは、子どものためのサッカー教室やイベントに出演したり、チャリティー試合などを行う「種子島BiG ViSiON」※を立ち上げるなど、サッカーの楽しさを伝える活動をしています。
「サッカーの力はとても大きい、サッカーだからできることがあると思っています。
『種子島BiG ViSiON』は、僕自身が四国で育ったこともあり、地方の活性化のために何かをしたいという思いもあって始めました。ここに来た子どもたちが、将来プロになって活躍すれば、地域のためになるんだということも伝えるようにしています」


プロサッカー選手への夢
子どもの頃は器械体操をしていたという福西さん。サッカーを始めたのは、たまたま友だちが始めたからだと言います。
「ただ友だちと一緒に遊びたくて始めたんです。性格的にもみんなでやることが好きだったので、中学では個人競技の体操よりも団体競技のサッカーを選びました。
サッカーは1人ではできない。そこにサッカーの魅力があります。良いことも悪いことも共有できますし、悪いところがあれば、みんなで話し合い、補い合う。みんなで協力し合うところが面白かったんです。
その仲間たちがサッカーが強い高校へ行くというので、僕も同じ高校へ進みました。高校時代は、新居浜ではめちゃくちゃ巧いと言われていて、調子に乗っていました(笑)。ところが、愛媛の選抜に選ばれても試合に出られない。四国の選抜に選ばれても、もっと巧い人がいる。衝撃でした。同学年の宮本恒靖(現日本サッカー協会会長)や中田英寿はすでに日本を背負っていましたし。同い年なのにこんなに違うのかっていうのを『知ること』が大きなキーポイントになりました」


「種子島BiG ViSiON 2024」のようす
(YouTube「福西崇史 福ちゃんねる」より)
高校2年の時にJリーグが発足し、サッカーをやりたい気持ちはいっそう強く。高3の時、県予選を視察に来ていたジュビロ磐田のスカウトの目に止まり、念願のプロ選手への道が開けました。
「実は対戦相手の選手を見に来ていたらしいです。後から、僕の姿勢が良いから目についたと聞きました。脚も上げられるし、体が柔らかいのでプレーエリアが広いと。姿勢が良いとサッカーでは視野が広がるし、バランスを取ったり、空中の姿勢をキープすることも得意だったから、ヘディングが強かった。体操で学んだ体の使い方がサッカーで役に立ちました。個人競技と団体競技のいいとこ取りなんです」



サッカー人生最大の試練?
けれど、晴れて入団したジュビロでは、サッカー人生最大の試練が待っていました。周りは想像を超えたハイレベルな選手たちばかり。試合出場はおろか、練習にもついていけませんでした。
へこたれそうになりながらも、ここで生きていくためにはどうすればいいのか必死で考え、試行錯誤を繰り返した半年後、当時のオフト監督に、ポジションをフォワードからボランチにコンバートすることを提案されます。さらに、闘将と畏れられた世界一のブラジル人選手ドゥンガが加入し、Wボランチを組むことに。毎日、怒られながらも、世界一の技を学びとっていきました。そうして才能を開花させた福西さんは、日本代表でも欠かせない存在となっていったのです。
「世界一の選手と一緒にプレーすることが、どんなにプレッシャーだったか(笑)。でも、すごいメンバーの中で試行錯誤していて行き着いたのは、『体を使える』という自分の特長を生かすことでした。
ドゥンガには毎日のように怒られましたが、僕は本当に感謝しています。今の若い子たちは怒られることが嫌なのかもしれないけど、愛のある指導は受けなきゃ損だよって言いたいし、一番手っ取り早い勉強です。ドゥンガには『同じ失敗はするな』と言われ、工夫することを覚えて、自分の色を出せるようにもなりました。
四国を出たことのない人間が、四国を出て日本って広いなと思っていましたが、横に世界一がいて、それ以降に日本代表を背負うことになって、自分の視野も広がりました。だからこそ、サッカーのすばらしさを再確認できたんだと思っています」
自分の道は自分で選ぶ
へこたれそうになってもサッカーをあきらめなかったのはなぜ?
「自分で選んだ道だからです。その道を進み続けるために何ができるのか、今できることをどうやれるか、を考えました。
だから、子どもたちにも、自分ができることを自分でしっかり選んでほしいと伝えたい。人まかせにするのではなくて。そうしたら、人が助けてくれます。ヒントをくれます。きっかけをくれます。そのきっかけに僕がなれればいいなと思って、今の活動をしていますし、それをやり続けたい。
サッカーで日本が盛り上がると、みんなが笑顔になる。みんなが元気になります。それが社会のためになるのかは分かりませんが、地域の盛り上がり、日本の盛り上がりにもつながると僕は信じています。
サッカーに携わってきたおかげで、今の自分がある。その思いを胸に、これからも自分に何ができるのかを考えながら試行錯誤していきます」
種子島 BiG ViSiON 2025
元日本代表サッカー選手が参加し、スポーツを通じて子どもたちに夢に挑戦する勇気を届けるイベント。地元サッカーチームを対象としたサッカー教室、元日本代表チームとのエキシビションマッチ、音楽LIVEを行う。スポーティングディレクターは福西崇史。
日時: 2025年10月18日(土)
場所: 中種子町立陸上競技場(鹿児島県種子島)
観戦自由(小学生以下は保護者同伴)
https://www.villageai.jp/tbv/

福西崇史さん、10代の頃何してました?
Q.好きだったことは?
自然が大好きなんで、自然の中で遊ぶこと。僕が育った新居浜は、山もあって、海も、川もある自然が豊かなところ。中学生時代、チャリで足をつかずに山を越えるとか、どうやったら馬ふんの山を越えられるかとか。小学生の時には発泡スチロールに乗って海に出て行こうとして(一寸法師のように)怒られましたけど(笑)。自然の中で一つずつ課題を作って、クリアしていくことがすごく楽しかったですね。

Q.憧れていた人は?
高校生の頃、サッカーで上を目指し始めてからは、オランダのフリット選手が好きでした。今ではドレッドヘアーの人はたくさんいるけれど当時は珍しくて、それも衝撃的にカッコ良かったし、何より抜群の身体能力と卓越したボールテクニックがすごいと思って。誕生日も同じでしたし。小学生の時は、マンガ『キャプテン翼』に夢中に。後に南葛SCに入団(監督も)したのも、その影響が大きいです(笑)。

2002 日韓ワールドカップ
写真:Enrico Calderoni /アフロスポーツ
福西崇史さん
1976年愛媛県新居浜市生まれ。サッカー日本代表として、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会と、ワールドカップに2度出場。プロサッカー選手として14年間活躍し、現在はサッカー解説者として活躍するほか、小中学生のためのサッカー教室やチャリティー試合などを行う『種子島 BiG ViSiON』を立ち上げるなど、スポーツの楽しさを伝える活動も展開。2022年早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に進み、翌年修了。

写真:中村嘉昭 イラスト:藤 美沖
※この記事は『ETHICS for YOUTH』2025年秋号(No.11)に掲載したものです。